薩摩の郷中教育

郷中教育とは

薩摩の「郷中教育」は、豊臣秀吉の朝鮮出兵時、出兵した武士の留守中、青少年の風紀が乱れたため、留守居役の家老たちが考案した青少年教育システムであると言われており、また英国で発祥した「ボーイスカウト」の原型ともいわれている。

私は昭和26年生まれで鹿児島県垂水市出身であるが、昭和30年代には、この郷中教育がそれぞれの地域に様々な形で残っていた。

桜島新城小学校

垂水フェリーからの桜島               母校 新城小学校

呼称も地域によって、ごじゅう、ごじゅ、ごうちゅうと異なっていた。 私の故郷である垂水市新城においてもこの郷中(ごじゅ)教育は「馬追い」と「十五夜の綱引き」という行事を中核として遊び、スポーツの中に残っていた。

いずれも、地域の青少年のグループの年長者による年少者の教育システムあり、中学2年生レベルを長として幼稚園児まで含めたグループで、海遊び、山遊び、郷中グループ対抗の各種スポーツ、十五夜の綱引きのための茅、葛とり、そして綱の作成等のイベントを通じて年長者に様々な教育を受けた。

中でも印象的な遊びは、「降参言わせ」であり、2人で行う相撲やレスリングと言えば聞こえは良いが「喧嘩」である。これは2人でやらされる場合もあれば、グループ間の団体戦もあった。

いずれも勝敗は相手が「降参」というか泣いたら終わりであり、人と喧嘩する場合の限度を実地に教える遊びであった。

ちなみに、江戸時代に存在した同様の教育システムとしては会津の「什教育」のみと言われている。

日新館什の掟

日新館                      什の掟

薩摩の郷中教育は、6歳から10歳までを小稚児(こちご)と呼び、11歳から15歳の長稚児(おせちご)が生活全般を教え、 更にこの長稚児を指導するのは、15歳以上の二才(にせ)と呼ばれる青年たちであった。

早朝に一人で自分が興味を持つ年長者の家に行って、儒学や書道などの教えを受ける。 ・・・そして子供だけで集まり、車座になって朝学んだことを一人づつ発表する。 ・・決まった場所はなく、子どもが輪番で地区の家にお願いして集合場所を決めていたようです。

教えを受けた年長者の考え、レベルは当然バラバラであり、統一された指導要領もなく、 考えも統一されていなかった。 発表する本人は教わったことを自分の考えとして発表する。 そして討議し、皆で考えを共有する。

ここで驚くべきことは、子供同士で意見を言い合うデベート形式の学習であったことです。

これを「詮議(せんぎ)」と呼んでいました。

今でいう「ケーススタディ」であり、起こり得るけど簡単には答えが出ないような状況をいろいろ“想定”し、 その解決策を皆で考え合う訓練です。

例えば「殿様の用事で急いでいるが、早駕籠(はやかご)でも間に合わない。どうするか」とか、 「殿様の命を受けて合戦中の味方の助太刀に出陣中、自分の砦が敵に襲撃された。 引き返して自分の砦を守るか?それとも自分の砦は見捨てて殿様の命に従うか?」とか、 「道で侮辱された。どうするか」といった起こり得るリアルな設問を次々と挙げ、 各自が自分だったらどうするかを述べ、皆で議論する。いわゆる「ケーススタディ」であり、 想定外などと言う逃げは許されない責任を意識するための際限のない「イメージ訓練」でありました。

「詮議教育」は、戦国時代くらいまでは日本中で行なわれていたようです。 江戸時代になるまでは、公家や荘官や守護大名のようなごく一部のエリート以外は字を読めなかったので、 一般的に武士は、戦(いくさ)の成功・失敗事例を文字でなく耳で学び、 皆で議論し、実践的スキルを向上させる学習会を行なっていたと言われています。

例えば、織田信長の比叡山焼き討ちの事例を学ぶ場合、「仮に信長が、焼き討ちをしなかったらどうなったのか」とか、「焼き討ちという戦法は正しかったのか、他に方法はなかったのか」「信長の焼き討ちを思いとどまらせるには、どのようにしたらよかったのか」等を議論しました。

この「詮議(せんぎ)」教育によって、ぶれない信念をもって日本の正しい進路を導ける多くの人材が育ちました。

また「義とは何か」といったテーマで議論を繰り返し、そうした日常生活の規範を、 それぞれが内面化していく道徳教育も行われていました。

道徳教育に関しては「日新公(じっしんこう)いろは歌」(日新公は島津の殿様)があり、 大人になるまでに毎日毎日欠かさず唱え、自分の道徳観念として定着させたそうです。

ちなみに最初の「い」は「いにしえの道を聞きても唱えても わが行ないにせずばかいなし」であり、 「どんな昔の教えを聞いても自分で実践しなければなんの意味もない」という意味であり、まさに実践的な教えです。

日新公いろは歌は、現代でも活用できる素晴らしいものですのでここに紹介します。→ ここをクリック

薩摩の郷中教育は君主に忠義、親に孝行、下の者に慈悲いう理念のもとで、 基本的には年長者すなわち上位の者に責任を持たせるのが目的の教育であったと言えます。

ちなみに、郷中教育の規約、掟は各地に残っており、それぞれ内容は異なるが、 全体を包括すると次のような項目です。

① 忠孝を重んじ、文武を励め。

② 礼儀をたしなみ、親睦、団結を心がけよ。

③ 山坂達者であれ。

④ 何事も詮議をつくせ、決まったら議をいうな、言い訳するな。

⑤ 嘘をつくな、弱音を吐くな、卑劣なことをするな。

⑥ 弱いものいじめをするな。

⑦ 目上を重んじよ、親に口答えをするな。

⑧ 女と交わるな。

⑨ 金銭を持つな、1人で買い物をするな。

⑩ 酒、煙草をのむな。

⑪ 歌舞、音曲、芝居を見るな。

⑫ 足袋、頭巾、襟巻きをするな、木綿を着れ。

⑬ 無刀で外出するな、脇差し1本で辻角を廻るな。

⑭ どんな場合でも刀は抜くな、抜いたらただでは鞘におさめるな。

⑮ 槍を持たせた役人には、礼をしろ。

⑯ 他家の果樹、壁、屋根に手をかけるな。

要約すると

①  忠孝、文武

②  礼儀、親睦、団結

③  山坂達者

④  詮議、議を言うな

⑤  嘘をつくな

⑥  弱いものいじめをするな

⑦  目上、親に従え

等であり、

特に現代の子供たちに欠けているのは③の山坂達者です。

山坂達者とは、年長のニ才たちが稚児を引き連れて、山野を駆け巡り鍛錬するもので、 厳しい山坂でも弱音を吐かないチャレンジ精神旺盛な逞しい子供を創り上げる遊びの訓練でありました。 この 遊びの中では、小鳥の捕獲の方法や野ウサギやイノシシ等の獣を獲るための罠の作り方や 薬草・毒草の見分け方などを年長者が実地に教えます。

また、鹿児島には子供達の遊びの中に今でも引き継がれているスローガンがあります。

それは”泣コカイ、飛ボカイ、泣ッヨカヒッ飛べ”であり、畑の段差や小川を移動するための掟でもあり、 泣いて許しを請い飛ばないか、泣くよりは失敗してもいいから飛んでしまえ、という教えであり この”ヒッ飛べ”の精神も、教室でのいじめを黙認する現在の子供達に必要ではないでしょうか!

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郷中教育が今でも原型をとどめる形で残っているのは、出水の郷中教育です。

出水は肥後熊本と国を接する薩摩の表玄関にあたり、国境の守りとして古来から、武道に力を入れ、薩摩でも抜きん出た士気と兵力を有していた。

郷中教育にはそれぞれの郷中ごとに掟があり、出水の郷中の掟が「出水兵児修養掟」であり、中でも抜きん出たものとして、高い評価を得てきた。

『 出水兵児修養掟』
士は節義を嗜み申すべく候。節義の嗜みと申すものは、口に偽りを言はず、身に私を構へず、心直(すなお)にして作法乱れず、礼儀正しくして上に諂(へつ)らはず、下を侮(あな)どらず、人の患難を見捨てず、己が約諾を違ヘず、甲斐かいしく頼母しく、苟且(かりそめ)にも下様の賤しき物語り悪口など話(ことば)の端にも出さず、譬い(たとい)恥を知りて首刎ねらるゝとも、己が為すまじき事をせず、死すべき場を一足も引かず、其心鐵石の如く、又温和慈愛にして、物の哀れを知り人に情あるを以て節義の嗜みと申すもの也。

私の故郷の郷中教育も厳しい「しつけ教育」であったが、厳しいなかにも年少者に対しては優しさと愛情のある対応であったが、規律を乱す者に対しては、グループから排除する等の厳しい処罰があった。


フリー百科事典「Wikipedia」をベースに整理


郷中教育(ごじゅうきょういく)は、薩摩藩の武士階級子弟の教育法。

郷中の掟

  • 武士道の義を実践せよ
  • 心身を鍛錬せよ
  • 嘘を言うな
  • 負けるな
  • 弱いものいじめをするな
  • 質実剛健たれ
  • たとえ僅かでも女に接することも、これを口上にのぼらせることも一切許さない
  • 金銭利欲にかんする観念をもっとも卑しむこと

などからなる。

区分

起源4-5町四方を単位とする「方限(ほうぎり)」を基盤として、そこに含まれる区画や集落に居住する青少年を

  • 小稚児(こちご、6-10歳)
  • 長稚児(おせちご、11-15歳)
  • 二才(にせ、15-25歳)
  • 長老(おせんし、妻帯した先輩)

の4つのグループに編成したもの。

それぞれのグループで「頭(かしら)」(稚児頭、二才頭など)が選ばれ、頭は郷中での生活の一切を監督し、その責任を負った。郷中のメンバーは「舎」(健児の舎)に集まり武術や学問に励んだ。

起源

起源郷中の起源は島津義弘によるとされている。また、郷中が教育組織としての機能を発揮するようになるのは江戸時代中期以後の事であり、現存する藩の法令でも島津吉貴が方限・郷中の綱紀粛正と文武奨励を命じる文章が出されるなど、その運営に苦心した事が明らかにされている。薬丸自顕流が体育・思想教育として用いられたのは有名である。

明治維新で武士階級は消滅したが、舎は存続した。現在の鹿児島県では、青少年の社会教育の場として機能している舎は少なくなっている。

なお、イギリスで郷中が研究され、ボーイスカウト制度のもとになったという俗説もあるが、そのような事実はない。

教育内容

稚児と呼ばれる武士の子どもたちは
早朝、毎日先輩の家へ走っていって本読みを習い
家に帰って朝食後その復習をしたのち今度は
馬場と呼ばれる広場や神社の境内などに集って
馬追いや降参言わせ
相撲、旗とりなどの山坂達者によって身体を鍛える

午後は、読み書きの復習をした後
先輩や先生の家にいって夕方まで
剣、槍、弓、馬術など、武芸の稽古

長稚児たちは
夕方から二才たちが集まっている家に行って
郷中の掟を復唱したり自分たちの生活を省みる

武士の子としてよくない行いがあれば注意を受け
場合によっては厳しい罰を受けることもあった

このように、武士の子どもたちは
一日のほとんどを同じ年頃や少し年上の人たちと一緒に過ごしながら
心身を鍛え
躾(しつけ)・武芸を身につけ
勉学に勤(いそ)しんだ

年長者は年少者を指導すること
年少者は年長者を尊敬すること
負けるな、うそをつくな、弱い者をいじめるなということなどを
人として生きていくために最も必要なこととして教えていた

この郷中教育は
文禄・慶長の役(1592~98年)のとき
残された子どもたちの風紀が乱れないように始められたと言われる

何より卑怯(ひきょう)・卑劣をいやしむのが郷中教育の教えである

郷中一覧

当初の数は18であったが、幕末の頃には33と増加している。

  • 紙屋谷
  • 上ノ原
  • 城ヶ谷
  • 岩崎
  • 冷水
  • 屯田
  • 後迫
  • 韃靼堂
  • 清水馬場
  • 中ノ町
  • 福昌寺
  • 内ノ丸
  • 横馬場
  • 中村
  • 実方

下方限 編集

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  • 上加治屋町
  • 下加治屋町
  • 馬乗馬場
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  • 西田
  • 常盤
  • 正建寺
  • 八幡

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コメント

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