会津の什(辺)教育

会津の什教育とは

 


日新館什の掟

「什の掟」

一・年長者の言ふことに背いてはなりませぬ

二・年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ

三・嘘言を言ふことはなりませぬ

四・卑怯な振舞をしてはなりませぬ

五・弱い者をいぢめてはなりませぬ

六・戸外で物を食べてはなりませぬ

七・戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです

 

この什の掟が最も有名であるが、什の掟はグループごとに制定したルールであるため、グループによっては「什の掟」の内容は若干、異なっていたようである。

 

会津藩の上級藩士の子弟は、10歳になると会津藩校「日新館」に入学する。会津藩校「日新館」に通う者は、身分(居住区)によって9班に分かれた。

なお、身分の低い中級藩士や下級藩士は、会津藩校「南学館」「北学館」に入学した。

 

日新館に入学する前の6歳から9歳の会津藩士の子共は、この9班に準じて9つの班を作り、10人程度の「什(じゅう)」というグループを形成していた。

 

什では、身分に関係なく、年長者(9歳)が什長(リーダー)になり、9歳の者が複数人居るときは、早生まれの者が什長となるのが慣例であった。

 

什では、身分や能力に関係無く、年功序列によって厳しく秩序が守られ、年少者が年長者よりも先に席を立つことも許されなかった。

 

什の子供達は、午前中は寺子屋などで素読を学び、午後からは天候に関係無く、1カ所に集合し、什のグループで行動し、単独行動は許されなかったといわれる。

 

そして、一度集合すると什長が解散を宣言するまで、勝手に帰ることは許されなかった。 遠方からの訪問者がある場合などは、両親が年長者に許可を得る必要があった。

 

什のメンバーは当番制で自宅の一室を提供することになっており、昼食が終わると、一室に集まった。当番に当たった家は、必ず夏は水を、冬は湯を出したが、お菓子や果物を出すことは禁じられていた。

 

子供達の集会を「遊び(什の遊び)」と言い、什長は什の遊びで「什の掟」を暗唱する。

これが「ならぬことはならぬものです」で有名な会津藩の「什の掟」であり、リーダーが「什の掟」を暗唱することを「御話(お話の什)」といわれていた。

 

子供達が集まると、毎回、什長が「什の掟」を暗唱し、子供達はリーダーが1つ読み上げるごとに、「はい」と返事してお辞儀した。

 

什長の御話(話しの什)は毎日、行われていたため、子供達はみな「什の掟」を記憶していた。

 

なお、什の掟は藤原正彦のベストセラー国家の品格でも紹介され、会津出身の衆議院議員の渡部恒三も度々引用したことから全国的にも知られるようになり、学校でのいじめなどが社会問題化する中、テレビドラマ「白虎隊」でも取り上げられ、教育関係者の注目も集めた。なお、最後の一節「ならぬことはならぬものです」から、NN運動が福島県を中心に展開されている。

 

 

「什」の制裁

什長が「什の掟」を言い終えると、子供達に「什の掟」に反した者は居ないか尋ねる決まりとなっている。 このとき、「什の掟」に反した者を知っている者は、「何某が戸外で女性を話しておりました」などと告訴する。

すると、什長は告訴された者を中央に呼び、違反の事実を問いただす。違反が事実であれば、罪の重さによって制裁が加えられた。

 

1・無念(むねん)の制裁…違反が軽い場合は、リーダーが「無念を立てなさい」と命じ、違反者は各人に向かって「無念でありました」と言ってお辞儀して謝罪した。

 

2・竹篦(しっぺい)の制裁…竹篦とは「シッペ」のことで、罪が軽い場合には掌にシッペし、罪が重い場合は手の甲にシッペが行われた。

また、罪の重さによって回数が決められた。 シッペの制裁はリーダーの監視下で行われ、仲の良い者が形式的にシッペするような場合は、即座にやり直しが命じられた。

 

3・派切る(派切り)の制裁…「派切る」とは絶交のことで、子供を仲間はずれ(村八分のようなもの)にする制裁で、制裁の中で1番重い制裁である。

この制裁を受けた者は、両親や兄に付き添いの元で、什長に謝罪しなければ、村八分の制裁は解除されなかった。 これは、破廉恥な行為をするなどの重罪を犯さなければ適用されることはなかった。

 

4・手炙りの刑…手炙りの刑とは、「什の掟」に背いた者(被告)の手を火鉢の上にかざし、子供達が鼻の脂を指で被告の手に付けて溶かす刑罰である。例外的に行われていた。

 

5・雪埋めの刑…雪埋めの刑とは、「什の掟」に背いた者(被告)を雪に押し倒し、雪をかける刑罰である。この刑も例外的に行われていた。

 

 


 

会津日新館HPによる「什の教え」の説明

 

同じ町に住む六歳から九歳までの藩士の子供たちは、十人前後で集まりをつくっていました。この集まりのことを会津藩では「什 (じゅう)」と呼び、そのうちの年長者が一人什長(座長)となりました。

毎日順番に、什の仲間のいずれかの家に集まり、什長が次のような「お話」を一つひとつみんなに申し聞かせ、すべてのお話が終わると、昨日から今日にかけて「お話」に背いた者がいなかったかどうかの反省会を行いました。

一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです

※什により、一つ二つ違うところもありましたが(「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」はすべての什にあったわけではないようです)、終わりの「ならぬことはならぬものです」は、どの什も共通でした。

そして、「お話」に背いた者がいれば、什長はその者を部屋の真ん中に呼び出し、事実の有無を「審問」しました。事実に間違いがなければ、年長者の間でどのような制裁を加えるかを相談し、子供らしい次のような制裁を加えました。

一、無念(むねん)
一番軽い処罰です。みんなに向かって「無念でありました。」と言って、お辞儀をしてお詫びをします。「無念」ということは、「私は会津武士の子供としてあるまじきことをし、名誉を汚したことは申し訳がない、まことに残念であります。」という意味でした。

二、竹篦(しっぺい)
いわゆる「シッペ」です。制裁の重さに応じて、手のひらに加えるか又は手の甲に加えるか、何回加えるかを決めました。
仲がいい相手だからと力を抜くものがいれば、什長は厳しく目を光らせ、すぐにやり直しを命じました。

三、絶交(ぜっこう)
一番重い処罰です。これを「派切る(はぎる)」と言い、いわゆる「仲間はずれ」でした。めったに加えられる罰ではありませんでしたが、一度「絶交」を言い渡された場合には、その父か兄が付き添い「お話」の集まりに来て、什長に深くお詫びをし、什の仲間から許されなければ、再び什の一員に入ることができませんでした。

四、その他
火鉢に手をかざす「手あぶり」や雪の中に突き倒して雪をかける「雪埋め」というような制裁もありました。

子供にとって仲間たちから受ける審問は辛いものではありますが、「お話」も「制裁」もすべて大人たちに言われてつくったものではなく、子供たちが制約や強制を受けずに自分たち自身でつくり、「会津武士の子はこうあるべきだ。」ということを互いに約束し、励み合ったのです。

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