島津日新公いろは歌!

郷中教育 島津日新公いろは歌!

 

 

いにしへの 道を聞きても 唱へても
わが行ひに せずばかひなし

 

いにしえの道とは昔の聖賢(せいけん)の教義、学問のこと。聖賢:聖人と賢人、また、知識・人格にすぐれた人物 この歌は「薩摩藩教学」の金科玉条となったもので、47あるいろは歌の代表名歌となっています。
昔の賢者の立派な教えや学問も口に唱えるだけでは役に立たない。 実践、実行することがもっとも大事である。 薩摩藩教学の金科玉条といわれる歌です。

 

 

 

 

楼(ろ)の上も はにふの小屋も 住む人の
心にこそは 高きいやしき

 

楼(ろ)は2階作りの立派な家の事で、茅葺(かやぶき)とは埴生(はにふ、はにゅう)の小屋のこと。 粗末な小屋の事を指します。

金殿玉楼(立派な御殿)に住もうが、埴生の小屋(粗末な小屋)に住もうが、 人の貴賤は、その人の心のあり方によって決まる。

 

 

 

 

はかなくも 明日の命を 頼むかな
今日も今日もと 学びをばせで

 

明日のことは誰もわからない。今日できることを明日に延ばすと、さらに明後日、またその次の日に延ばす。 明日という日を頼みにしてしまうと、結局は何も出来なくなる。もし明日自分が死んだらどうするのか。
今この時を大切にし、今日すべきことを明日に伸ばすな!という教えです。

 

 

 

 

似たるこそ 友としよけれ 交らば
われにます人 おとなしき人

 

自分と似た者は友にしやすいものであるが、わが徳をすすめるには、自分より優れた者、徳の高い人, そして、温厚な人を友だちに選びなさい。自分よりも優れた人と友人になることで、今の自分の考え方や能力、 人生における結果をも高めることとなります
人は無意識のうちに、自分と同じレベルの人と友達になろうとするものです。 しかし、なるべくならば自分よりも才能や学問等が優れている人で、思慮分別のある人を選ぶようにしなさい。 仕事の場においても、自分と関連のある業種の人ばかりと知り合いになるよりも、異業種の他者との交流の方が、 はるかに得るものは大きくなるという教えです。

 

 

 

 

ほとけ神 他にましまさず 人よりも
心に恥ぢよ 天地よく知る

 

神仏はどこにでもいるものではなく自分の中にいる。恥ずべき行動をしたら、自分の良心に恥じよ。 世間は欺けても天地は欺けない。

人間の心には神仏が必ず住んでいるものであり、自分の良心に恥じることなく、正しい生活行動を行ないなさい。 他の誰かが見ていないと思っていても、天地は必ず見ている。 他人はごまかせても「天地」をごまかすことはできないという教えです。

 

 

 

 

下手ぞとて 我とゆるすな 稽古だに
つもらばちりも 山とことの葉

 

自分は下手だと卑下して稽古をあきらめてはならない。稽古を積めば少しづつ 進歩して、遂には上手になれる。ちりも積もれば山となる。

いくら下手(へた)であっても、稽古を疎かにするものではなく、毎日毎日、少しずつでも積み重ねていくことによって、 必ず上達するという教えです。

 

 

 

 

科(とが)ありて 人を斬るとも 軽くすな
いかす刀も ただ一つなり

 

科(とが:罪)があっても人を切ることを軽々しくしてはならない。 殺人剣も活人剣も、心ひとつで決まるものである。

たとえ罪人であっても、軽率に処罰してはならない。本当に斬らなければならないのかを慎重に考え、 殺すことよりも生かすことの難しさをよくよく考えなさいという教えです。

 

 

 

 

知恵能は 身につきぬれど 荷にならず
人はおもんじ はづるものなり

 

知恵や芸能は身につけても重荷にになるようなものでもない。 世の人はその人を見て尊敬し、己の及ばない事を恥じるものです。

人間の知恵や能力は、どれだけ身につけても決して重荷にならない。 多くの能力を身につけた人を世間は尊敬し、無知を恥じるという教えです。

 

 

 

 

理も法も 立たぬ世ぞとて ひきやすき
心の駒の行くに まかすな

 

道理も通らず、法も行なわれない乱世であっても、正義人道を守り通し、我が心のままに自暴自棄になって、 勝手放題をしてはならない。 乱れた世の中であっても、自分勝手な振る舞いを行なってはならない。 たとえ世間が乱れ、変化していったとしても、自分の行動は常にまっすぐと、 正しく進むようにしなければならない、という意味です。

 

 

 

ぬす人は よそより入ると 思うかや
耳目(みみめ)の門に 戸ざしよくせよ

 

盗人は他所より侵入すると思うか、真の盗人は耳や目から入ってくるから耳目の門にしっかり戸締りをし、 心の鏡をみがき、誘惑を退けよ。

悪いことは外から入ってくるものと思っている人が多いが、本当の悪は自分の内側にいるものです。 人の言葉に惑わされ、周りの変化に自分を見失ったりする事が無い様に、悪い情報が入ってこないように、 耳と目にしっかりと「戸締り」をしなさい。 心の戸締りをしっかりとしなさいという教えです。

 

 

 

 

流通(るづう)すと 貴人や君が物語り
はじめて聞ける 顔もちぞよき

 

たとえ自分が良く知っていることでも目上の人の話しは、初めてきくという顔つきで聞くのがよろしい。

人はややもすると、態度によって相手の印象を悪くしてしまう場合がある。 上司や目上の人の話を聞き飽きたと聞き流している人は、 一度相手の話にしっかりと耳を傾け、新鮮な気持ちで相手の話を聞くように心がけよう。 知っている話であっても、今までにはなかった新たな「気付き「」を得られという教えです。

 

 

 

 

小車(をぐるま)の 我が悪業に ひかれてや
つとむる道を うしと見るらん

 

欲望や情欲についつい引かれてしまうのが人間であり、今までは何ともなかった仕事が突如として辛くなってしまい、 仕事をさぼって悪業(あくごう:悪行のこと)に走ってしまう。

今、自分が行なっている仕事を当たり前とせず、「感謝」の気持ちを持って日々進んでいくことが大切であるという教えです。

 

 

 

 

私を捨てて 君にしむかはねば
うらみも起こり 述懐(しゅつかい)もあり

 

我を捨て一身をささげて君に仕えなければ、恨みも起こり不平不満もでてくる。

私心を捨て、私利私欲に囚われず、無心で仕えることで自分自身を伸ばすこともできるという教えです。

 

 

 

 

 

 

学文は あしたの潮の ひるまにも
なみのよるこそ なほ静かなれ

 

朝であっても昼であっても、学ぶことに時間は関係ありません。 しかし、できれば夜が良い。 万物が眠る夜の静けさほど、勉強に適した時間は無い.

学問をするには朝も昼も間断なく修めなければならない。 特に夜は静かで 勉強しやすい。無駄な時間を過ごすのではなく、しっかり勉強するべきだ。 社会人であれば、仕事が終わって1日の終わりとするのではなく、 寝る前の1時間でも勉強に費やすべきだという教えです。

 

 

 

 

 

 

 

善(よ)きあしき 人の上にて 身を磨け
友はかがみと なるものぞかし

 

人は自分の行いの善し悪しを知ることは難しいが、 他人の行いの善し悪しは目につくものである。 友人を自分の鏡として、良いことは見習い、悪いことは反省せよ。

人は自分が行なうことに対する良し悪しには気づきにくいが、 友人の善行や悪行は目に付きやすいものである。 そういった友人達の行ないを自分の反面教師とし、 自分の修行の手本にせよという教えです。

 

 

 

 

種となる 心の水に まかせずば
道より外に 名も流れまじ

 

悪い噂の種となる私利私欲の行いをしなければ、悪いうわさも流れない。

私利私欲に従って悪いことをするから、道を誤り悪いうわさも流れる。 ら正しい心で良いことをすれば、悪いうわさなど立つはずがないという教えです。

 

 

 

 

 

 

 

礼するは 人にするかは 人をまた
さぐるは人を さぐるものかは

 

他人に礼を尽くすことは、決して他人のためだけではない。 同じように人を見下げるということは、自分を見下げていることと同じとなる。 謙虚さと礼儀正さを失わないよう、また、少しばかりの才能を鼻にかけ、人前で威張ることが無い様にしなさい。

謙虚さと礼儀正さを失わないよう、また、少しばかりの才能を鼻にかけ、人前で威張ることが無い様にしなさい。 人に礼を尽くして敬うということは、それは自分に対しても敬っていることになるのです。 人を馬鹿にして、自分よりも見下げてものを言えば、それは自身にとってもマイナスでしかなく、 何も得るものは無いのです。 天を敬い、己を慎む。こういった心を養い、自分の周りに居る人達に対して常に礼儀を持って接していくことで、 あなた自身も高まるという教えです。

 

 

 

 

そしるにも ふたつあるべし 大方は
主人のために なるものと 知れ

 

主人に対する悪口は二通りあり、本当に主人のことを思って口に出た悪口と、 自分の私利私欲や不平不満からの鬱憤を晴らすために出たものがある。 どちらの悪口に対しても、主人は寛大な心を持って聞き入れ、反省すべきである。

人は皆、自分の悪口を聞けばいい気分ではいられない。 しかし、その悪口をしっかりと受け止め、自分の欠点を指摘してくれたものと考え反省し、 自分を高めるための足がかりとすべきであるという教えです。

 

 

 

 

つらしとて 恨(うら)みかへすな
我れ人に
報ひ報ひて はてしなき世ぞ

 

相手の仕打ちがどんなに辛くても相手を恨み返してはならない。 仕返しは仕返しを生んで果てしなく続くのが世の常である。

人からどんなに辛い事をされても決して報復を考えてはならない。 報復ではなく、許す心が大切である。 許す心とは、すなわち耐える心であり、耐えて耐えて、耐えることで咲く花もある。 恨みには「徳」を持って対処することで、「負の連鎖」を止めることができ、 恨みを持って返していけば、双方にとってさらに良くないことが起こってしまうという教えです。

 

 

 

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